1.はじめに
「なぜその人が譲歩するかといえば、それはその人が相手は譲歩しないと思っているからである(注1)」
これは、2005年にノーベル経済学賞を受賞したゲーム理論の大家、トーマス・シェリングの言葉である。シェリングがこう論じたように、交渉というのは最終要求を提示した(自分はこれ以上譲歩や別の提案をすることはないと相手に信じさせた)側が勝利する。
2018年4月17日と18日の二日間にわたって開催された安倍首相とトランプ大統領との首脳会談にて、二国間の新通商協議の開始が決定された(注2)。安倍首相はトランプ大統領に鉄鋼・アルミの輸入制限解除を求めたが、この要求は一蹴され、むしろ日本がトランプ政権からの二国間自由貿易協定(FTA)交渉を持ちかけられたかたちである。安倍首相は、トランプ大統領に環太平洋経済連携協定(TPP)への復帰を呼びかけているが、(復帰の可能性を否定はしないものの)トランプ大統領は日本との一対一の二国間協定を優先している。首脳会談にて日米FTAについて具体的な約束が交わされたわけではないし、安倍首相は、新通商協議は日米FTA交渉の予備協議ではないとの立場であるが、トランプ大統領は二国間FTAが望ましいという立場を明確にしていることから、首脳会談によって日米FTAを回避できたというよりは単に問題が先送りされたに過ぎない。
安倍首相とトランプ大統領は良好な関係を築いているように見えたが、3月に、長い間米国を出し抜くことができたとほくそ笑んでいる、とトランプ大統領が安倍首相を批判したことは大きく注目されたとおりである(注3)。この発言に限らず、厳しい発言や制裁で相手を脅して譲歩を勝ち取る手法をトランプ大統領が露骨に推し進めている。3月下旬、米韓FTA(KORUS)再交渉が大筋合意に至ったが、当初は再交渉に難色を示していた韓国が大幅な譲歩を受け入れる結果となった。交渉に際しては駐留米軍撤退という安保カードが用いられたとも言われ、こうしたトランプ政権の強引な交渉術が「成功」しつつあるように見える。
では、なぜトランプ大統領の脅しとも言うべき強引な交渉術が効果を発揮しているのだろうか。日米のFTA交渉はまだ始まっていないし、仮にFTA交渉を行うにしても交渉が決裂した場合の「代償」(たとえば在日米軍を縮小・撤退させる、という脅し)が示されたわけでもない。その意味で、本稿でこれから論じる内容はやや先走りが過ぎるかもしれない。しかしながら、通商分野をめぐる最近の1、2か月の動向を見ると、トランプ大統領の強引な交渉術が成功している印象を受けるのであり、近いうちに日本がトランプ大統領との交渉を余儀なくされるならば、彼の交渉術が「機能」する要因を検討することは有意義であろう。この疑問を解くため、冒頭に示した「なぜその人が譲歩するかといえば、それはその人が相手は譲歩しないと思っているからである」というシェリングの言葉と、「イシュー・リンケージ」(issue linkage)仮説を補助線に検討してみたい。
2.トランプ大統領の奇妙な強気
目下、日米の新通商協議をめぐる動向を見ると不思議な気持ちになる。というのも、弱い立場なのは米国だったはずだからである。
トランプ大統領は、2018年1月のダボス会議(世界経済フォーラム会合)においてTPP復帰を検討するとの意向を表明した。これはトランプ大統領の焦りの表れであった。「包括的および先進的な環太平洋パートナーシップ協定」(CPTPP、以下TPP11)が合意され、米国の農産物が日本市場から締め出されてしまう懸念が生じたためであり、大統領選挙で農業セクターから支持を集めたトランプ大統領としては、彼らからの支持をつなぎとめておく必要があった。そのため、日本市場開放につながるTPPの可能性を残しておかなければならなかったのである(注4)。とはいえ、TPPに反対して一度はご破算にしたのは当のトランプ大統領であり、苦労してTPP11を取りまとめた日本をはじめとする参加国が米国の再交渉要求に応じる義理はない。
山下一仁氏がまとめているように、TPP11参加国に米国の再交渉要求に応じるインセンティブは少ない。カナダ、豪州、メキシコ、チリなどは米国とFTAを締結済みであるため、TPPがなくても米国市場に関税なしで輸出できる。また、カナダ、豪州、チリ、ニュージーランドなどはTPP11によって米国農産物よりも有利な条件で日本市場に輸出できるため、むしろ米国がTPPに復帰しないほうが利益となる。このようにTPP11参加国は、米国の復帰を心待ちにしているわけではない。しかもTPPからの離脱を勝手に決めたのはトランプ大統領であるから、TPP復帰のために譲歩すべきは当然ながらトランプ大統領であろう。「日本はでんと構えていればよい。(中略)相手がTPP加入を要請してから、おもむろに立ち上がるという横綱相撲をとればよい(注5)」のである。
にもかかわらず、日米新通商協議をめぐる一連の報道を見ていると、日本が防戦一方に見えるのはなぜだろうか。
3.イシュー・リンケージ仮説
ここでイシュー・リンケージという仮説を導入する。Christina Davisの定義によると、イシュー・リンケージとは、「交渉が合意するよう利害のバランスを変化させるために様々なイシューを結びつける一般的な交渉戦略」を意味する(注6)。Davisは、農産物の貿易自由化を題材に、イシュー・リンケージによって一般的に困難とされる農産物の自由化が可能になると論ずる。Davisの想定している貿易自由化におけるイシュー・リンケージとはすなわち、単一品目だけを対象にした貿易自由化交渉ではなく、複数の品目(農産物と工業製品など)の貿易自由化を同時に進めることである。すべての品目の貿易自由化を同時に合意しなければならないとすることで、様々な省庁や利益集団が利害関係者となって他の品目の自由化にも関心を持つようになる。そして、貿易自由化に反対することが多い農業セクターだけが抵抗を貫くことが困難となり、結果、農産物の自由化が進むとDavisは主張するのである。本稿では、Davisが想定していたイシューを拡大して、安全保障といった通商とは通常関連しないイシューとのリンケージも含めて論を進めることにしたい。
もちろんイシューを結び付ければ自動的に貿易自由化が進むわけではない。特にイシューを結びつけることの信憑性それ自体をどう確保するかが問題となる。仮にFTAの締結と安全保障問題をリンクさせて、FTAを締結しなければ同盟を破棄すると脅しても(逆の言い方をすれば、同盟を維持したければFTAを締結せよ、と要求しても)、そのような取引は、脅しをかける側にとっても不利益かつ非合理的であるから実行するはずがない、と相手に判断されてしまえばイシュー・リンケージは機能しない(注7)。そのため、次節ではイシュー・リンケージが機能したと考えられるKORUS再交渉を材料に、安全保障(駐留米軍や同盟)を維持したければFTAを締結(再交渉)せよ、というトランプ大統領の提案が最終要求のように見えてしまう要因を検討したい。
4.トランプ大統領の「予測不可能性」が彼ならやりかねないという予測を生む
韓国は、KORUS再交渉を3か月で妥結する代償として、米国のトラック輸入関税撤廃期間の延長や米国車輸入枠の拡大といったKORUSの修正と、鉄鋼輸出を直近3年の7割に抑える数量規制を受け入れた。トランプ大統領にとっては勝利だったかもしれないが、韓国にとっては早期に交渉を終わらせるために余儀なくされた譲歩であった。
KORUS再交渉でトランプ大統領は在韓米軍の撤退まで示唆したとされる。南北朝鮮首脳会談や米朝首脳会談など東アジア情勢に緊張緩和の兆しが見えるとはいえ、北朝鮮の金正恩政権が核やミサイルの実験を繰り返すなど、情勢は緊迫していた。このような情勢下、KORUS再交渉が安全保障問題とリンクすることで、韓国にとって交渉が決裂したときの損失が著しく増大し、損失回避のためにはKORUS再交渉に応じざるを得なくなる(韓国内の米韓関係重視派からKORUS再交渉および米国への譲歩を容認する声も強くなっていたことだろう)。
それでも、在韓米軍の撤退は東アジアでのプレゼンスを失うという意味で米国にとっても打撃となるため、米国の政権が「合理的」であれば韓国としても交渉の余地はあっただろう。在韓米軍撤退は米国にとってもマイナスであり、米国が合理的であれば、そのような脅しを実行に移せるはずがなく、したがって在韓米軍撤退は単なる交渉のための脅しに過ぎない、と韓国側が判断する可能性が高くなるためである。
しかし、トランプ大統領は、大統領選挙期間中より同盟国の負担増大を求める立場を明確にしていたし、大統領就任後1年以上が経過するにもかかわらず、相変わらず政権の対外政策は「予測困難」かつ「非合理的」であると理解されている。そのため、トランプ大統領がKORUSを米国に有利なかたちで修正しないと在韓米軍を撤退させる、と要求すると、非合理的な彼ならやりかねない、という疑念が払拭できなくなる。トランプ大統領であれば在韓米軍の撤退も辞さない、と韓国が認識したことが安保カードが機能した要因であり、トランプ大統領は譲歩しないだろうと認識した韓国は、シェリングが主張したように自身の譲歩を余儀なくされたのである。
日米新通商協議に話を戻そう。トランプ大統領が安全保障とリンクさせて、日米FTAを締結しなければ在日米軍を縮小・撤廃すると要求してきた場合、米軍のプレゼンス縮小を受け入れてFTAを締結せずにTPP11復帰をトランプ大統領に求めるという選択肢も理論的には存在する。しかし、依然として東アジア情勢が緊迫しており(また、仮に一時的に緊張が緩和しても、緊張が再び悪化する確率が高いという将来の影を意識せざるを得ないとすれば)、米軍のプレゼンス低下は日本にとって大きな損失となる。そのような大きな損失を安倍首相が受け入れる政治的動機はないだろう、とトランプ大統領が判断すれば、米軍が縮小・撤退しても構わないという脅しは効果を発揮しない。
他方で、トランプ大統領は「非合理的」であり、在日米軍撤退は米国にとって東アジアでのプレゼンスの減少という意味でコストを伴うはずだが、トランプ大統領ならやりかねない(し、KORUSの前例がある)と日本が認識すると、在日米軍の縮小・撤退により日本の安全保障を犠牲にしたくなければ米国に有利な日米FTAを受け入れろ、という提案が日本にとっては最終要求に聞こえてしまい、日本が譲歩を受け入れざるを得なくなるのである。冒頭のシェリングの言葉を借りれば、「なぜ日本が譲歩するかといえば、それは日本がトランプ大統領は譲歩しないと思っているからである」ということになろう。
5.トランプ大統領の要求に日本はどう応えるべきか。
以上検討したように、日米新通商協議において、KORUS再交渉のように安全保障とのイシュー・リンケージが用いられると、それだけ日本は難しい交渉を迫られることになる。
日本はいかなる方針でトランプ大統領の要求に対応すればいいか。引き続きトランプ大統領に様々な協議の場で方針転換を促すのは当然として、最も「模範的」な解答は「貿易転換効果(注8)」を狙って、TPP11や日欧EPA(経済連携協定)といったメガFTAを早期発効させて、「米国の輸出者や企業を日本市場やアジア市場で競争上不利な立場に置き、TPPに参加していないデメリットを大きくしていくことにより、トランプ政権の通商政策の転換を求める(注9)」ということになるだろう。
しかし、この対応が功を奏するか、はなはだ心もとない。貿易転換効果の圧力が機能するには、政府が産業界からの支持に依存していて産業界からの要望に耳を傾ける状況が成立していなければならない。しかし、鉄鋼・アルミ製品への輸入制限措置をトランプ大統領が導入した際、多くの産業界が反対を唱えていたにもかかわらず制限措置が強行されたことを見ると、トランプ大統領は産業界の意向よりも自身の支持者へのアピールを優先しているように見える。
また、トランプ大統領は、TPPという多国間交渉よりも二国間交渉のほうが米国のパワーを活かせると考えている。したがって、アジアにおけるメガFTA網が形成されればされるほど、早急な事態打開のために二国間交渉を進めようとするインセンティブが働く。現状のTPP11への復帰をトランプ大統領は利益とはみなしていない。TPP11への復帰にも二国間FTAにも(再)交渉が必要であれば、自国の立場に適した交渉の場(すなわち後者)を選択するであろう(注10)。
トランプ大統領が推し進めている通商拡大法232条や通商法301条といった国内法を根拠にした一方的な外国製品の輸入規制や輸出自主規制要求は、世界貿易機関(WTO)を中心とする今日の自由貿易レジームに反する行為である。経済学的に仮に日米FTAが日本経済にとってプラスだとしても、第二次世界大戦の教訓をもとに国際社会が築き上げた自由貿易レジームを破壊するような行為は認めるべきではないだろう。
とはいえ、国際的なルールに則っているのは明らかに日本であるものの、個別の交渉の帰趨は相手の譲歩をいかに誘うかによって決まるのであり、すなわち、こちらは譲歩しないと相手に思わせることが鍵となる。韓国はすでにトランプ大統領の強硬策に屈した感がある。日本はどうか。安全保障を犠牲にしてでもトランプ大統領にTPP11への復帰を求める、と信じさせられれば相手の譲歩を促すことができようが、日本にそのような政治的動機はないだろうとトランプ大統領が認識すると効果がない(し、日本国内からも安全保障を犠牲にするべきではないという声が上がるだろう)。そうなると、トランプ大統領の「非合理性」がむしろ武器となる。日本は、安全保障(駐留米軍や同盟)を維持したければFTAを締結せよというトランプ大統領の提案は本当に最終要求かもしれない、という不安と戦いながらの交渉となってしまう。
トランプ大統領の脅しに抵抗するためには、政策的な是非はともかく、論理的には日米同盟への依存度を引き下げるという選択肢はあり得る。日本が安全保障を米国に依存しているからこそ、安保カードが取引の材料として効果を持つからである。しかし、仮に日本の安全保障上の「自立」が日本の安全保障の改善と外交交渉力強化に資するにしても早期にそれを実現することは困難である。そのため、日本が当面やるべきことは、安全保障問題とのリンケージを回避する努力であろう。日米安保や在日米軍が米国にとって大きな利益であることをトランプ大統領に理解してもらい、通商交渉のために安保という死活的な利益を賭けることを押しとどめるのである。
とはいえ、トランプ大統領に直接説いても効果は薄い。むしろ、トランプ大統領が重用する人物、たとえば政権幹部の解任が相次ぐ中でも職を保っているマティス国防長官などを介して説得するほうが効果的である(注11)。周囲を固める構図を日米新通商協議で実現できれば、日本はトランプ大統領からの圧力を減らすことができるだろう。
(注1)Thomas C. Schelling, The Strategy of Conflict, Oxford University Press, 1960, pp.21-22.
(注2)外務省「日米首脳会談」2018年4月18日、http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_003937.html。
(注3)“Trump’s Twin Blows to Japan Test Limit of Abe’s Charm Offensive,” Bloomberg, March 22, 2018, https://www.bloomberg.com/news/articles/2018-03-22/trump-s-twin-blows-to-japan-test-limit-of-abe-s-charm-offensive.
(注4)山下一仁「危ない!トランプ氏の誘いに乗るな-TPPで圧倒的に立場が弱いのはアメリカ。日本は御用聞きをすべきではない」『WEBRONZA』2018年1月30日、http://webronza.asahi.com/business/articles/2018012900001.html。
(注5)山下、同上。
(注6)Christina L. Davis, “International Institutions and Issue Linkage: Building Support for Agricultural Trade Liberalization,” American Political Science Review, Vol. 98, No.1, 2004, p.153.
(注7)Davis, Ibid., p.156.
(注8)貿易転換効果とは、FTA形成により、従来域外の世界中で最も効率的な生産国から輸入していたものが、FTA当事国の間で関税がなくなった結果、従来の輸入国から関税が撤廃・削減されたFTA当事国に転換・代替される状況を指す。ここでは、「最も生産的な国」からの輸入に限らず、より広義に、FTAの締結によってFTA非当事国からの輸出競争力が不利になることを指すこととする。
(注9)菅原淳一「日米首脳、新貿易協議開始で合意―日米FTA交渉への前哨戦となるのか?―」みずほ総合研究所『みずほインサイト』2018年4月20日、https://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/insight/pl180420.pdf。
(注10)Kal Raustiala and David G. Victor, “The Regime Complex for Plant Genetic Resources,” International Organization, Vol.58, No.2, 2004, pp.299-300.
(注11)「トランプ政権刷新、重要度増すマティス氏の存在」『The Wall Street Journal』2018年3月27日、http://jp.wsj.com/articles/SB11603097433702364731104584126272699617240。
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