政策活用が進む「ナッジ」:中小企業政策への活用事例
新たな政策手段としてナッジの活用が広がっており、多くの実践事例が紹介されている。紹介されている事例の対象は一般の市民を対象とすることが多いが、政府や自治体は企業に対しても多くの政策を実施しており、ナッジの活用余地があると考えられる。
そこで本稿では、中小企業が施策・制度を認知し、利用につながるようなナッジの事例を紹介する。
1.中小企業に対する政策とその認知度の低さ
経営改善・資金繰り支援対策、震災対策など、中小企業向けの施策・制度は数多く提供されている。例えば、中小企業庁が発行している「中小企業施策利用ガイドブック1」では、260を超える支援制度が紹介されている。中小企業はこうした制度や施策をどのくらい認知しているのだろうか。
安田[2014]2は小規模企業3の経営者・役員に対して、主要な中小企業政策の認知状況についてアンケート調査を行っている。その結果、金融関連施策を除いた政策では7割前後が「名前を聞いたことがない」と回答している。(図1参照)
中小企業向けの施策・制度は多く用意されているにも関わらず、企業側では認知できていない理由や背景にはどのようなものがあるのだろうか。
図1 中小企業政策の認知状況
(出所)安田武彦 (2014) 「中小企業政策情報の中小企業への認知普及―小規模企業を対象にした考察―」RIETI Discussion Paper Series 14-J-049をもとに作成
2.なぜ中小企業では施策や制度が認知されていないのか
安田[2014]は、そもそも中小企業施策を知らない回答者が多かったことを踏まえ、「中小企業庁の支援施策を「利用したいと思わない」、「利用したくない」と思うとしたら」という仮想的な状況について、その理由を複数回答で尋ねている。それによると、「支援施策を詳しく理解する時間がない(43.3%)」、「支援施策のメリットを実感できない(38%)」、「支援施策利用の手続きが煩雑である(37.0%)」という結果が得られている。(図2参照)
以上より、中小企業が施策・制度を有効に利用できない理由は以下4点に整理できる。
① 施策や制度が認知されていない
② 施策や制度を理解する時間がない
③ 施策や制度を利用する上でのメリットを実感できない
④ 施策や制度を利用するための手続きが煩雑である
図2 「中小企業庁の支援施策を「利用したいと思わない」、「利用したくない」と思うとしたら」
という仮想的な状況について、想定する理由
(出所)安田武彦 (2014) 「中小企業政策情報の中小企業への認知普及―小規模企業を対象にした考察―」RIETI Discussion Paper Series 14-J-049をもとに作成
3.どうすれば中小企業は施策や制度を認知し利用するようになるか?
近年、公共政策の課題に対するアプローチ方法として、ナッジや行動科学に注目が集まっている。以下ではナッジを中心に上記の4つの課題の緩和が期待できる事例を紹介する。
(1)課題1:施策や制度が認知されていない
この課題に関して、企業向け支援制度の利用促進にナッジを活用したイギリスの事例4を紹介する。イギリスでは2014年、企業が経営コンサルティングを利用する際に発生する費用の一部を支援する制度(Growth Voucher)を実施した。この制度実施にあたって企業への案内メールを送付する際、メッセージにナッジを盛り込み、効果検証を行った。具体的には、該当する中小企業に対して5種類のメッセージをランダムに送付し、受け取ったメッセージの違いによって、制度のウェブサイトのリンクをクリックする割合がどのくらい異なるか検証している。その結果を示したものが図3であるが、「貴社が選ばれました」というメッセージが最も効果的であることがわかった。
制度を作りましたという案内だけでは、仮にその案内を受け取っても企業が関心を持たなければ制度を利用しない。この事例では、伝えるメッセージを「選ばれました」とすることにより、企業に制度と自社が関係あることを認識させ、関心を引き立てることができたと考えられる。相手の行動を促すにあたり、いかに印象的に伝えるか、という点でうまくナッジを活用した事例といえる。
図3 Growth Voucherの案内メールのクリック率
(出所)Felicty Algate (2015) “ ‘You have been selected’: Driving uptake of government schemes”, Behavioural Insights Team Blogをもとに作成
(注記)+ p<0.1, * p<0.05, ** p<0.01, *** p<0.001
(2)課題2:施策や制度を理解する時間がない
この課題に関しては、中小企業の法令遵守の促進にナッジを活用したシンガポールの事例がある5。シンガポールは雇用関係の法令が複雑であり、政府が雇用法令の遵守を求める文書を送付しているにもかかわらず、中小企業の法令の遵守率の低さが問題となっていた。そこで、①法令の遵守状況をチェックする際のポイント・対応方法・罰則を明示するという取組みと、②政府の事前通知をこれまでの10日前から2か月前に変更するという取組みを行った。その結果を示したものが図4であるが、雇用法令の遵守率は以前の方法と比べ、いずれも約1.5倍上昇した。
これは、ポイントを明解にして具体的に対応方法を明示することで、企業の理解が促進され、結果として法令遵守率に大きな差が生まれる結果となった。業務が忙しい時期に、時間を割いて施策や制度の内容を十分に理解することは難しい。期限に猶予を持たせ、受け入れられやすい時期に介入することで、内容を理解する時間を企業側の都合で調整できるようにする工夫でもある。
図4 シンガポールにおける法令遵守促進施策別の遵守率
(出所)The Behavioural Insights Team(2016) 「Update Report 2015-16」をもとに作成
(注記)+ p<0.1, * p<0.05, ** p<0.01, *** p<0.001
(3)課題3:施策や制度を利用する上でのメリットを実感できない
この課題に関しては、日本の経済産業省が中小企業のITツール等導入の促進にナッジを活用した事例がある6。中小企業のデジタル化支援に係る効果的な手法を特定することを目的としてどのようなナッジを活用したアプローチが効果的であるか、比較実験を行った。
具体的には、IT関連のイベントを広報するWebバナー広告を複数用意し、クリック数の比較実験を行った。結果として、「AIで売上が4倍に!」というメッセージを記載したバナー広告が他と比べてクリック率が高い結果となった(図5参照)。メリットそのものを直接訴えかけることで関心を引いているといえる。
図5 バナー広告別の合計クリック率
(出所)株式会社電通(2020)「令和元年度中小企業実態調査事業(中小企業のITツール等導入プロセスにおけるナッジ活用の可能性に関する調査) 実施報告書」をもとに作成
(4)課題4:施策や制度を利用するための手続きが煩雑である
この課題を解決するには、必要となる作業やステップを減少させること、次に何をやるべきかが明確であることが重要である。
支援制度を利用する場合、そもそも自社が対象となるのかどうかの確認に手間がかかることが多い。課題1の事例として紹介したイギリスのGrowth Voucherの事例は認知を高めるだけでなく、自社がそもそも制度の対象であるかどうかを確認する手間をなくしている。
制度利用の手続きをわかりやすく伝えることで利用を促した事例7もある。トルコの貿易省では輸出を行いたいと考えている企業を支援するため、国際見本市などへの出店の費用を補助する制度を創設した。しかし、制度の利用が少なく2017年度には予算が余ってしまう事態に陥ってしまった。そこで、利用の呼びかけを行うメールを送付する際、ナッジを踏まえたメッセージや手続きを分かりやすく伝えたメッセージを用意し、どのメッセージで申し込み率が上昇したかを検証した。その結果、最も申し込み率が高かったのが、「親切なメッセージ」であった。「親切なメッセージ」には、制度の申し込み前に企業の情報を提出する必要がある旨を伝え、補助金を受け取るまでの手続きを段階的に説明していた。
手続きの煩雑さが課題の場合、ナッジを盛り込んだメッセージを送付するより、手続きを簡単に理解できる取組が効果的だとわかる。
図6 トルコ貿易省の利用呼びかけメールと申し込み率
(出所)The Behavioural Insights Team[2019]“Boosting businesses: applying behavioural insigths to business policy”をもとに作成
(注記)+ p<0.1, * p<0.05, ** p<0.01, *** p<0.001
4.まとめ
中小企業は施策や制度を有効に活用できておらず、その原因には制度の認知不足や理解不足、時間のなさ、手続きの煩雑さなどが挙げられていることが分かった。本稿では海外での活用の事例を中心にナッジを用いた課題解決の例を紹介した。
ナッジは取り組みやすく、ちょっとした工夫で効果が得られる。海外事例なども適用しやすい。しかし、ナッジの実践にあたってはいくつか注意が必要であり、専門家などを交えて検討することが望ましい。
まず、認知・普及の障害が何であるかを特定できていなければ、有効なナッジの取り組みを適切に選択できない。例えば、ある制度に対する期待感の低さが問題である時に、認知を促進するナッジを行っても、制度利用を後押しする効果は薄いだろう。問題の把握と適切なナッジを十分に検討する必要がある。
最後にデータを収集しナッジの効果を検証する際は、事前にデータや分析のデザインを作りこむ必要がある。これらを十分に設定できれば、だれにどのようなナッジがどの程度の効果的であったかを把握することができる。ナッジの実践は世界や日本各地で広まっているが、ある地域で効果的であってもほかの地域で効果的とは限らない。ナッジの分析で得られた知見は、地域の特性を把握するうえで今後も役に立つものとなり、将来にわたりナッジを進める際の地域の財産となるだろう。
(一般社団法人スマートシティ・インスティテュート 会員コラム より転載)
1 中小企業庁ホームページ「2021年度版中小企業施策利用ガイドブック」(2021年7月5日閲覧)
2 安田武彦 (2014) 「中小企業政策情報の中小企業への認知普及―小規模企業を対象にした考察―」RIETI Discussion Paper Series 14-J-049
3 20人以下の従業員規模
4 Felicty Algate (2015) “ ‘You have been selected’: Driving uptake of government schemes”, Behavioural Insights Team Blog(2021/7/12 閲覧)
5 The Behavioural Insights Team(2016) 「Update Report 2015-16」(2021/7/9 閲覧)
6 株式会社電通(2020)「令和元年度中小企業実態調査事業(中小企業のITツール等導入プロセスにおけるナッジ活用の可能性に関する調査) 実施報告書」
7 The Behavioural Insights Team[2019]“Boosting businesses: applying behavioural insigths to business policy”
テーマ・タグから見つける
テーマを選択いただくと、該当するタグが表示され、レポート・コラムを絞り込むことができます。