生物多様性に関する国際的な議論の潮流とTNFDベータ版フレームワークの概要
1. 気候変動と並び注目される「生物多様性」
生物多様性の喪失が、非常に大きな経済上のリスクとして認識されるようになってきている。世界経済フォーラムは2020年に発表した「Nature Risk Rising1」で、世界の総GDPの半分以上にあたる約44兆ドルの経済価値創出が自然資本に依存しており、自然の破壊によるリスクにさらされていると報告している。また、同機関が発行する「グローバルリスク報告書2」の2022年版では、「深刻度から見たグローバルリスク」の3位に「生物多様性の喪失」が挙げられている。
これらの潮流を受け、生物多様性の保全に向けた国際的な議論が進んでいる。2021年10月には中国の昆明で、国連生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)の第1部が開催され、昆明宣言3が採択された。2022年7月~9月に開催予定のCOP15第2部では、2020年までを目標年とした愛知目標に続く、次の国際目標「ポスト2020生物多様性枠組」の採択が予定されている。昆明宣言は、「ポスト2020生物多様性枠組」の採択に向けた決意を示すものである。この宣言の中で、生物多様性の損失の主な直接要因の一つに挙げられているのが気候変動である。気候変動は自然損失の直接的な要因であると同時に、広範な自然損失が生態系の炭素貯蔵能力を低下させ気候変動を加速させることから、生物多様性と表裏一体の関係にあるとされている。2021年の気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)でも、気候変動と生物多様性喪失の両方の危機に対応していくことの重要性が強調された。
国際的な議論を受け、各国も対応を進めている。2021年5月、フランスはエネルギー・気候法の第29条で、銀行や投資家、保険会社等を含むすべての金融機関に対し、気候変動と生物多様性の両方のリスクと影響、それらを低減するための戦略を開示することを法制化した。また、イギリス財務省は、英ケンブリッジ大学のダスグプタ名誉教授が発表した「生物多様性の経済学(ダスグプタ・レビュー)4」を受け、生物多様性を経済や財務の意思決定に組み込むネイチャーポジティブ宣言を発表した。
そこで本稿では、気候変動と並び経済に影響を与える重要な課題として注目され始めている生物多様性について、その背景と国際的な議論の潮流、構築の議論が進む自然関連リスクに関する情報開示フレームワークの概要を整理する。
2. TNFDの発足とベータ版フレームワークの公表
気候変動と同様に生物多様性への注目が高まる中、「自然関連財務情報開示タスクフォース」(TNFD: Taskforce on Nature-related Financial Disclosures)が、気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD:Taskforce on Climate-related Financial Disclosures)に続く枠組みとして、2019年世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で着想された。これは、民間企業や金融機関が、自然資本および生物多様性に関するリスクや機会を適切に評価し、開示するための枠組みを構築する国際的なイニシアチブである。TNFDは、資金の流れをネイチャーポジティブに移行させるという観点で、自然関連リスクに関する情報開示フレームワークを構築することを目指している。
2022年3月には、最初のベータ版フレームワーク(V0.1)が公表された。TNFDはオープンイノベーションの手法を取っており、ベータ版フレームワークに対する市場参加者からのフィードバックを募集している。市場参加者から受けたフィードバックは、2022年6月と10月、2023年2月公開予定のベータ版に反映され、2023年9月に最終的な提言が発表されるスケジュールとなっている。
(出所)TNFD(2022), “TNFD自然関連リスクと機会管理・情報開示フレームワーク エグゼクティブサマリー”, p.3
3. TNFD のベータ版フレームワークの概要
ベータ版フレームワーク(V0.1)は、重要な概念や定義を含む基礎的ガイダンス、情報開示の提案、自然関連リスクと機会の分析のための方法論の3つの要素から構成されている。
(1) 自然を理解するための基本的概念と定義
幅広い市場参加者が自然、および自然関連リスクと機会を理解するための、科学に基づく主要な概念と定義を含む基礎的なガイダンス
(2) 開示に関するTNFDの提言
気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)が策定した気候関連ガイダンスのアプローチと文言に沿った情報開示提案
(3) 自然関連リスクと機会の評価アプローチ–LEAPの導入
企業や金融機関が自社のリスク管理およびポートフォリオ管理プロセスに組み込むことを検討するための、自然関連リスクおよび機会分析に関する実践的ガイダンス
(出所)TNFDリリースおよびベータ版フレームワークより当社作成
各項目の概要を整理すると、以下の通りである。
(1) 自然を理解するための基本的概念と定義
TNFDのベータ版フレームワークで使用されている「自然」や、「自然資本への依存・影響」、「自然関連リスク・機会」の概念と定義を説明し、それぞれがどのように関係し合うかについて整理している。具体的には、金融の世界において財務資産から利益が生み出されるのと同様に、生態系や生物多様性も社会における大事な「資産(ecosystem assets)」であり、それらが豊かな状態であることでもらたらされる「生態系サービス(ecosystem services)」は、健全な経済活動になくてはならないものであると整理されている。生態系サービスには、原材料や食料を供給する「供給サービス」、水質浄化機能や災害を緩和する機能や花粉媒介などの生物によるコントロールを含む「調整サービス」、また観光やレクリエーションと結びついた「文化的サービス」があり、これらが人為的活動によってどう変化し、影響を与え合うかが検討の対象となる。
(出所)TNFD(2022),”The TNFD Nature-related Risk & Opportunity Management and Disclosure Framework Beta v0.1 Release”, p.25
TNFDのフレームワークのアプローチとして、自然が組織の当面の財務パフォーマンスにどのような影響を与えるか(アウトサイド・イン)だけでなく、組織がどのように自然に影響を与えるか(インサイド・アウト)についても考慮すべきだとしている。企業は、自社の自然資本への依存と影響の両方を考慮した上で、そこから生じるリスク・機会の分析を行い、企業行動へと繋げていく必要がある。
(出所)TNFD(2022),”The TNFD Nature-related Risk & Opportunity Management and Disclosure Framework Beta v0.1 Release”, p.40-41
(2) 情報開示に関するTNFDの提言
TNFDの情報開示に関する提言は、TCFDの情報開示フレームワークに基づいたものになっており、TCFDと同様に「ガバナンス」、「戦略」、「リスク管理」、「指標と目標」の4つの柱で構成されている。これは、前述の通り気候変動と自然損失が相互関係にあることや、既に開示が進んでいる気候変動と一貫させた統合的な開示を進める狙いがある。
また、この4つの柱にまたがる、開示の根拠となるべき一般的な要件も挙げられている。
- 自然に関する依存関係や自然の影響についての評価
- ロケーションの検討
- 自然関連リスクと機会の評価および管理に関する能力の検討
- 開示のスコープと今後の開示で扱われる内容についての記述
(出所)TNFD(2022),” TNFD自然関連リスクと機会管理・情報開示フレームワーク エグゼクティブサマリー”, p.6
これらのTNFDの情報開示フレームワーク案は、以下の考慮事項に基づいて設計されている。
グローバル基準との整合性 | サステナビリティに関する基準が乱立し、混乱が生じていることから、TCFDの情報開示フレームワークと一貫性を持たせる。 今後のフレームワークの開発段階で、新しい世界的な基準とも整合させていく。 |
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統合的な情報開示の実現 | 財務報告書と統合されたサステナビリティ開示を促進する。 TCFDまたは関連するフレームワークが使用されることを想定し、温室効果ガス排出に関する特定の文言は含めない。 |
“ロケーション”の重要性 | 依存と影響は特定のロケーションで発生するため、重要な自然関連リスクと機会を確実に特定するためには、バリューチェーン全体(直接・上流・下流を含む)でロケーションに基づいた分析を行う必要がある。 |
リスクと機会の両面の考慮 | リスクだけではなく、短期・中期・長期の自然関連の機会と、それに関連する将来パフォーマンスを評価する指標と目標を開示することを推奨する。 |
マテリアリティの考え方 | バリューチェーン全体(直接・上流・下流を含む)で、依存と影響に関連する重要なリスクと機会を開示することを求めている。 短期的には重要でなくとも、中長期的には企業価値にとって重要なリスク・機会となる可能性があるため、複数の時間軸で検討を行う必要がある。 |
時間軸の考え方とシナリオの活用 | 気候変動を含む、自然に関する長期的なトレンドと重大な不確実性を適切に考慮できるように、さまざまな長期的シナリオを考慮することを推奨している。 ※短期:2年未満、中期:2~5年、長期:5年以上 ※今後、シナリオ分析に関する追加的なガイダンスを発行する予定 |
開示範囲 | 開示範囲を明確にし、透明性を持たせる必要がある。 初期は開示の優先順位をつけ、最も重要なリスク・機会のある特定の事業活動に焦点を当て、段階的に範囲を拡大していく形で問題ない。 今後の開示計画の概要をあわせて説明する必要がある。(TCFDと同様、5年以内にサプライチェーン全体の重要な影響・依存を考慮する必要がある。) |
(出所)TNFD(2022),”The TNFD Nature-related Risk & Opportunity Management and Disclosure Framework Beta v0.1 Release”, p.42-45より当社作成
(3) 自然関連リスクと機会の評価アプローチ –LEAPの導入
ベータ版フレームワークの中では、自然関連リスクと機会の総合評価プロセスである「LEAP(Locate, Evaluate, Assess, Prepare:発見、診断、評価、準備)アプローチ」が提案されている。これを活用することで、情報開示に関するTNFDの提言に沿った戦略、ガバナンス、資本配分、リスク管理の意思決定が可能になるとされている。
(出所)TNFD(2022), “TNFD自然関連リスクと機会管理・情報開示フレームワーク エグゼクティブサマリー”, p.7
4. TNFDがロケーションの重要性を強調する背景
ここでは、TNFDのベータ版ガイダンスに基づいた評価・分析の実例を示す。特にベータ版では、自然関連リスクと機会の特定のため、ロケーションを考慮した評価・分析を行う重要性が強調されている。なぜ自然資本ではロケーションの考慮が重要なのか、簡易的な分析を通じて明らかにしていく。
ここでは、ENCOREというツールを用いて、自然資本に対する依存と影響を評価する。ENCOREは、国連環境計画世界自然保全モニタリングセンター(UNEP WCSC)や金融機関が共同で開発し、TNFDのDiscussion paper5の中でも、生産プロセスと生態系サービスの関連を評価するために活用できるツールのひとつとして紹介されている。
今回は、食品企業A社が分析を行うと仮定する。A社の主力製品としてコーヒー飲料があり、ブラジルとインドネシアで生産されたコーヒー豆を使用して製品を製造しているとする。まず、コーヒー豆の生産という活動が、その土地の自然資本にどのように依存し、また影響を与えているのかを確認する。
(出所)ENCORE, Agricultural Products / Large-scale irrigated arable cropsより当社作成
この結果から、コーヒー豆の生産に際しては、地下水や地表水、土壌の質などの自然資本に依存し、同時に生産地域の水資源や水質・土壌の質に影響を与えていることが想定される。
また、TNFDが提案する、ロケーションを踏まえた評価・分析を進めるために、コーヒー豆の生産地域であるブラジルとインドネシアの自然資本の状況を確認する。
(出所)ENCORE, Explore hotspots of natural capital depletion using the mapより当社作成
ブラジルでは大気、生物多様性、土壌、水資源のいずれについてもHotspot6があることが確認された。一方、インドネシアも同様に大気、生物多様性、土壌についてはHotspotがあるが、水資源に関するHotspotは挙げられていない。
この結果を、先程のコーヒー豆の生産活動による自然資本への依存・影響と照らし合わせて分析する。土壌や水資源の枯渇が進んでいるブラジルにおいて、それらの自然資本に依存するコーヒー豆の生産活動を続けることは、地域への負の影響を加速させると同時に、持続的な調達が出来なくなるリスクを抱えることになる。そのため、土壌と水資源への影響を低減させるための対応策を講じる必要がある。
一方、インドネシアでは現状、水資源が枯渇しているとされるHotspotはなく、水資源の利用による影響はブラジルと比べると相対的に低いことが想定される。そのため、土壌への影響を低減させることに焦点を当てた対応が必要となる。このように、同じ生産活動でもその活動を行うロケーションによりリスクが異なるため、TNFDではロケーションに基づいた評価・分析の重要性を強調していると考えられる。
今回はツールを用いた簡易的な分析であるが、同じ国の中でも地域によって自然資本の状況に差があり、実際の事業活動の内容によっても結果は異なるため、自社の実際の状況を踏まえた分析が必要となる。また、今回はサプライチェーンの上流の原材料調達のみ分析を行っているが、TNFDでは製造段階や最終製品の使用・廃棄等までを考慮したサプライチェーン全体での分析が求められている。
5. 終わりに
本稿では生物多様性が注目されている背景と国際的な議論、TNFDのベータ版ガイダンスの概要を整理した。ベータ版ガイダンスで、特にポイントと考えられる点は下記の通りである。
- TCFDと同様に、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」の4つの柱での開示が求められる。
- 自然資本への依存と影響の両方を考慮する必要がある。
- リスクと機会の両方を意識する必要がある。
- バリューチェーン全体で、ロケーションに基づいた評価・分析を行う必要がある。
- 自然関連リスクと機会の評価アプローチ(LEAP)の導入が提案されている。
生物多様性に関する議論は欧州で活発化しており、既にフランスでは一部情報開示について法制化がなされている。そのため、TCFDと同様に、今後は日本企業でも対応が迫られてくるものと考えられる。今回のベータ版へのフィードバックを踏まえた第2版のベータ版フレームワークや、シナリオ分析に関する追加的なガイダンスの公表等が今後予定されており、引き続き動向を注視していく必要がある。
【資料ダウンロード】
『TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)への対応』
1 World Economic Forum, Nature Risk Rising: Why the Crisis Engulfing Nature Matters for Business and the Economy (2020)
2 World Economic Forum, The Global Risks Report 2022 (2022)
3 Kunming Declaration; Declaration from the High-Level Segment of the UN Biodiversity Conference 2020 (2020)
4 HM Treasury, The Economics of Biodiversity: The Dasgupta Review (2021)
5 TNFD, Discussion paper: A Landscape Assessment of Nature-related Data and Analytics Availability (2022)
6 自然資本の枯渇度が上位20%以上の、生態系サービスの損失や劣化のリスクが高い地域。
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